外国から伝えられ、日本で育ったラムネ。長く愛され、今また話題の飲み物の歩んだ道をたどって。
ペリー以前からラムネを飲んでいた長崎の人
傾けると、カラコロと涼やかな音がするラムネは、夏の風物詩です。子どものころ、あの独特の姿の壜からガラス玉を取り出そうと試みた方も多いでしょう。
そんなラムネは、もとは舶来の飲み物です。日本へ伝わったのは、幕末のペリーの来航時、軍艦に積んできたのが始まりといわれています。その折、接待を受けた幕府の役人は、ポン!と栓を抜く音に驚いて、思わず刀の柄に手をかけたという逸話も伝わっています。
そんなラムネは、もとは舶来の飲み物です。日本へ伝わったのは、幕末のペリーの来航時、軍艦に積んできたのが始まりといわれています。その折、接待を受けた幕府の役人は、ポン!と栓を抜く音に驚いて、思わず刀の柄に手をかけたという逸話も伝わっています。
当時は、「きゅうり壜」と呼ばれており、寝かせて置くタイプのため、栓のコルクが飛び出さないよう針金でしっかり留められていました。水事情に恵まれない欧米では、早くからミネラルウォーターの研究が進み、18世紀には炭酸水が開発されていたといいます。レモンや生姜汁などの香料を加えた味付きソーダ水もつくられ、ペリーがもたらしたのも、そのような類だったのかもしれません。
ちなみに5月4日は、ラムネの日といわれています。明治5年(1872年)のこの日、東京の千葉勝五郎という人物がラムネを製造販売したことから定められました。
しかし、ラムネの起源には諸説あり、近年の研究では、長崎ではすでにペリーの来航以前から輸入されていたことが分かりました。市内の出島をはじめ、新地荷蔵や町屋からきゅうり壜が出土し、飲用されていたことが確認されたのです。当初長崎では「オランダ水」と呼び、また開栓時の音から「ポン水」と親しんでいました。
ポン水は、外国人を通して広まりました。開港後、大浦海岸に居留地ができると、多くのイギリス人やアメリカ人が暮らすようになり、彼らの日用雑貨を売る薬局なども登場しました。胃の洗浄などにも用いられたポン水は、そこに置かれたのです。
やがて慶応元年(1865年)ごろ、長崎東浜町の藤瀬半兵衛が、居留地の外国人に製法を学んで、「レモン水」を売り出します。レモン水は、英語で「レモネード」といいます。一説には、これが日本のラムネ製造の元祖といわれ、さらにレモネードがなまって、次第に「ラムネ」という呼び方が定着したのではないか、とされています。
藤瀬氏はその後、拠点を東京に移しますが、長崎では新たに、天草生まれの古田勝次がラムネづくりに取り組みます。勝次は、明治10年(1877年)から数年間、大浦海岸通りで薬房「メディカル・ホール」を営む、ウィリアム・ジャランドの下で清涼飲料水製造の修業をし、現在の長崎県警前の一角で、仲間と「古田商店」を創業し、清涼飲料水の製造販売を始めます。
玉入り壜が発明される以前に使われていた、「きゅうり壜」。野菜のきゅうりのように見えたことからそう呼ばれた。寝かせて置くことで、コルク栓が常に液に浸って膨張し、ガスが抜けるのを防いだ。(写真/長崎市歴史民俗資料館所属)
軍艦に炭酸飲料などのソフトドリンクを積んでいたと伝わる、ペリー提督。
明治19年(1886年)の西海新聞に掲載された、藤瀬店のポン水の広告。
「メディカル・ホール」経営のジャランド氏に炭酸飲料水の製法を学び、ラムネの製造販売を始めた古田勝次。
当時の長崎県庁前の大村町(現・万才町)に勝次が最初に構えた、モダンな「古田商店」。
画期的な壜の発明で、さらに広まる
ラムネの製造販売を始めた勝次は、世界の人が仲よく平和に暮らせるようにと、万国旗の真ん中で握手する図案を考案しました。これをトレードマークに、「御手引ラムネ」と名付けました。
古田商店はその後、より水の便のいい古川町に移り、2代目勝吉の時に「古田勝吉商店」と改名しました。今日、製造委託しているものの、御手引ラムネの名はそのままです。勝吉がこだわった上質のザラメや、炭酸の混入加減も忠実に守り、シュワシュワと立ち上る、昔ながらの甘い香りも健在です。
古田商店はその後、より水の便のいい古川町に移り、2代目勝吉の時に「古田勝吉商店」と改名しました。今日、製造委託しているものの、御手引ラムネの名はそのままです。勝吉がこだわった上質のザラメや、炭酸の混入加減も忠実に守り、シュワシュワと立ち上る、昔ながらの甘い香りも健在です。
古田勝吉商店には現在も、初代が考案したラベルをはじめ、明治末の清涼飲料水品評会で受賞した銀牌や、初期のいびつな形をしたラムネ壜が大切に保存されています。現在のものより一回り大きな、手づくりの壜には、御手引マークと製造所の名前が彫られ、回収、洗浄、充填と繰り返してきた、究極のエコ飲料の姿がうかがえます。
さて、この玉入り壜ですが、ガスの圧力で壜の口部にガラス玉を押し付け、内側から密封するという画期的な方法が編み出されたのは、明治5年(1872年)のことです。イギリスのハイラム・コッドが発明しました。コッドはさらに壜の肩に、玉を寄せるための窪みを設けるなどの改良を重ね、イギリスの清涼飲料界でもてはやされるようになります。やがて日本に伝わるのは、明治20年(1887年)ごろです。横浜のノースレー商会が輸入し、ほどなく壜の国産化もスタートするのでした。
黄金期から一転、苦難の時代を経て
明治20年(1887年)当時、米1kgが3銭3厘に対しラムネは8銭でした。庶民にはまだまだ高嶺の花でしたが、くしくもコレラの流行で、ラムネ人気は一気に高まることになります。ラムネを飲めば、コレラに冒されないという噂が流れ、製造する業者も急増しました。明治30年(1897年)から大正にかけて黄金期を迎えるのです。
明治33年(1900年)には、長崎でも貿易商のロバート・ウォーカーが、「メディカル・ホール」の後継者から清涼飲料水製造機を購入し、「バンザイラムネ」の大量生産を始めました。
また、大正10年(1921年)には、当時皇太子だった昭和天皇のヨーロッパ歴訪の際のお召艦「鹿島」「香取」に清涼飲料水の製造機が積み込まれ、以降、戦艦や駆逐艦などにラムネの製造機が設置されるようになりました。
また、大正10年(1921年)には、当時皇太子だった昭和天皇のヨーロッパ歴訪の際のお召艦「鹿島」「香取」に清涼飲料水の製造機が積み込まれ、以降、戦艦や駆逐艦などにラムネの製造機が設置されるようになりました。
こうして広まったラムネですが、戦後、アメリカから「昭和の黒船」ことコーラが上陸すると、たちまち追いやられてしまいます。壜の回収などが障害となって廃業を余儀なくされる業者も続出し、時代遅れのラムネは地方の駄菓子屋などで、細々と余生を送ることを強いられるのです。ところが、そんな苦難を経て、今また昭和レトロの風とともに、「地ラムネ」「地サイダー」などご当地ものが話題を集めています。全国清涼飲料工業会によると、その数は271銘柄(平成26年(2014年)12月調べ)以上とのことです。九州にも個性豊かなラムネやサイダーが次々に登場しています。「ラムネは都会ではなく、地方だからこそ生き残ってきたのだと思います」という古田勝吉商店の三代目滋吉さんの言葉がずしりと響きます。おいしく味わった後は、ちゃんともとの場所へ壜を戻す。そんなささやかな良心によって支えられてきた飲み物だからこそ、ラムネはほのぼのと愛され続けるのでしょう。
日本の軍艦の中で初めて清涼飲料水の製造機械が積み込まれた、昭和天皇のお召艦「香取」。(まちかどの西洋館 田邉貴教蔵)
かつて主流だった、木製の玉押し器具。ガラス玉を内部に押し込んで開栓していました。
古田勝吉商店が委託製造している、御手引ラムネ。