このラムネ、日本最古。
外国から伝えられ、日本で育ったラムネ。
有限会社古田勝吉商店の初代・古田勝次が居留地の外人さんから直接学んで作り出した「御手引ラムネ」。140年たった今もがんばっています。さぞかしハイカラだったんだろうなぁ。
有限会社古田勝吉商店の初代・古田勝次が居留地の外人さんから直接学んで作り出した「御手引ラムネ」。140年たった今もがんばっています。さぞかしハイカラだったんだろうなぁ。
御手引ラムネとは
1877年(明治10年)、古田勝吉商店の初代・古田勝次が、居留地の外国人から直接ラムネの製法を学んで作り出しました。
ラベルの握手の絵には「世界中の人が仲よく手を握り、みんながラムネを飲んで平和になってほしい」という願いが込められ、商品も「御手引ラムネ」と名付けられました。
昔から変わらない懐かしい味とカタチ。そして当時のこだわりと想いは今も受け継がれ、瓶の中に詰め込まれています。
ラベルの握手の絵には「世界中の人が仲よく手を握り、みんながラムネを飲んで平和になってほしい」という願いが込められ、商品も「御手引ラムネ」と名付けられました。
昔から変わらない懐かしい味とカタチ。そして当時のこだわりと想いは今も受け継がれ、瓶の中に詰め込まれています。
古田商店 初代・古田 勝次
●日本人で清涼飲料水(ラムネ)の製造を創めた者の一人 古田 勝次
長崎に今なお開業している清涼飲料専門の古田商店の初代・古田勝次は、長崎メディカル・ホール経営のジャーラン医師の下で、1877~80年(明治10~13年)に清涼飲料製造の修業をしたといわれています。1916年(大正5年)発行の竹村長槌「大典記念名鑑」(九州日の出新聞社)は、次のように述べています。
「長崎縣廳の前通り大村町の四角にラムネ、シャンペンサイダー製造元古田商店の大看板は衆人の目を惹いて居るが其の主人公たる古田勝次氏は熊本縣天草郡今津村の出、安政元年の生れと云ふから本年既寅の六十三歳、明治十年の春漂然長崎に来り大浦海岸通りドクトル、ジャーレン氏を頼り同氏の工場に勤むること三年間、ラムネ製造法を習得し現在の所に些かなる工場を建て獨力製品の販路を擴張せんと努めた、當時邦人として飲料水の製造を創めた者は纔かに全國二人のみ其の一人は横濱に在り他の一人は古田氏である。
最初市人の智識淺くラムネとは藥の一種なりと思雄し製造の初めより販路開け家業益々揚り、明治四十三年初めて東京に全國清涼飲料水品評會の開かれたる時氏の出品は二等銀牌を授けらる」
最初市人の智識淺くラムネとは藥の一種なりと思雄し製造の初めより販路開け家業益々揚り、明治四十三年初めて東京に全國清涼飲料水品評會の開かれたる時氏の出品は二等銀牌を授けらる」
古田勝次の場合は外国人から直接手ほどきを得た好例であり、まさに清涼飲料は舶来の伝授品であったことを示しています。
明治10年代の長崎では、居留地の内と外で清涼飲料が製造・販売されていました。
●古田 勝次(Furuta Katsuji)
1854年(安政元年)~1923年(大正12年)/商店の開業者。2代目の古田勝吉(かつよし)の名が現在の屋号となっている。現在は4代目雅義(まさよし)氏。
1854年(安政元年)~1923年(大正12年)/商店の開業者。2代目の古田勝吉(かつよし)の名が現在の屋号となっている。現在は4代目雅義(まさよし)氏。
イギリス生まれのニッポン育ち「御手引ラムネ」
炭酸のシュワリとした喉越しと、甘く香り立つ冷たいドリンク。懐かしさを感じさせるこの飲み物も、実は長崎から発信された舶来の味でした。
日本に炭酸飲料が登場したのは、1853年(嘉永6年)のペリー来航時とされています。船上での交渉の際、幕府の役人たちにふるまわれました。栓を開けた時に「ポン!」と音がなったため、銃声と間違えられたともいわれています。江戸時代、炭酸飲料が「ポン水」と呼ばれたのもこれが理由のようです。
日本に炭酸飲料が登場したのは、1853年(嘉永6年)のペリー来航時とされています。船上での交渉の際、幕府の役人たちにふるまわれました。栓を開けた時に「ポン!」と音がなったため、銃声と間違えられたともいわれています。江戸時代、炭酸飲料が「ポン水」と呼ばれたのもこれが理由のようです。
ビー玉をグイと押すと泡があふれ出すラムネの仕掛けは、1872年(明治5年)イギリスのコルク会社に勤めていたヒラム・コッドが考案したものです。炭酸飲料を充填したら間髪入れずに瓶をひっくり返すことで、内部の炭酸ガスの圧力でガラス玉が口部分のゴムパッキンに押し付けられ、瓶が密閉されるというもので、イギリスで大成功を収めています。
そして長崎居留地では、1871年(明治4年)から1879年(明治12年)にかけてメディカル・ホールという薬房を経営していたドイツ人ウィリアム・ジャランドが、清涼飲料水の製造に乗り出していました。メディカルとは医療のことです。当時、炭酸は胃腸の薬としても利用されていました。
ジャランド氏の炭酸飲料水製造には日本人で初めて学ぶの二人の見習いがいました。
そのひとりが古田勝次です。古田勝次は、ジャランド氏のもとで1877年(明治10年)から3年間修業を重ねた後、長崎市大村町(現在の万才町 長崎県警察本部跡地付近)にラムネ・シャンペンサイダー製造所を開業しました。
そのひとりが古田勝次です。古田勝次は、ジャランド氏のもとで1877年(明治10年)から3年間修業を重ねた後、長崎市大村町(現在の万才町 長崎県警察本部跡地付近)にラムネ・シャンペンサイダー製造所を開業しました。
ラムネ瓶の進化
古田勝吉商店には、明治42年(1909年)から大正8年(1919年)ごろにかけて使われたラムネ瓶が伝わっています。
当時、瓶は高価だったため、回収できるよう、製造元の名前や町名、シンボルマークなどが表面に彫られています。
●明治期のラムネ瓶
明治から大正にかけて使われていた古田勝吉商店のラムネ瓶です。当時は瓶もひとつひとつ手づくりだったため、形もいびつで気泡が入っているものもあります。
明治から大正にかけて使われていた古田勝吉商店のラムネ瓶です。当時は瓶もひとつひとつ手づくりだったため、形もいびつで気泡が入っているものもあります。
●昭和期の栓抜き
ビー玉を押して開けるのに使っていた木製の栓抜きです。商店によくぶら下がっていました。
ビー玉を押して開けるのに使っていた木製の栓抜きです。商店によくぶら下がっていました。
●現在のラムネ
現在は、明治期のラムネ瓶の雰囲気はそのままに、時代にあわせて進化しています。
現在は、明治期のラムネ瓶の雰囲気はそのままに、時代にあわせて進化しています。
明治期のラムネ瓶(写真/古田吉商店所蔵)
昭和期のラムネ瓶(写真/古田吉商店所蔵)
昭和期の栓抜き
現在のラムネ